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【私を支える魔法の言葉】
いつでも正直に

シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。

幾世屋 代表 堀内 由加里さん

(取材日:平成31年2月)

 1971(昭和46)年4月13日、近鉄生駒駅近くに店を構える和菓子の老舗店「幾世屋(いくよや)」の三代目の三女として生まれる。北大和高校から京都女子大学に進学し卒業。その後、 結婚し子どもに恵まれるが36歳の時に離婚。実家へと戻り、仕事の合間に家業を手伝うことに。しかし、父が他界。跡取りとして「幾世屋」の四代目に就任。伝統に縛られず、体に優しく、おいしい和菓子づくりに励んでいる。


いつでも正直に=例えいばらの道でも正直に切磋琢磨すれば、道は開ける。


  「なんでうちはケーキ屋じゃないの?」代々続く和菓子屋の娘として生まれた私が、幼い頃に思っていた正直な気持ちです。炊いたあんこの匂いが辺りに漂い、朝から晩までまんじゅうがある環境に飽き飽きしていました。甘いものは好きだけど、まんじゅうは嫌い。その上、両親の大変な様子を見て育ったので、家業を継ぐなんて考えたことがなく、父も私に「継いで欲しい」など一切言いませんでした。


《写真左》昭和30年代の幾世屋。当時は貴重な甘味処だったそうで、駅まで行列ができることもあったそうだ《写真右》堀内さん4歳の時。祖父と店前で


 「幸せなお嫁さんとし て普通の家庭を築きた い」と若くして結婚し、出産まで至ったのですが、紆余曲折あり、36歳の時に子どもを連れて実家へ戻ることになりました。そして、化粧品会社で働きながら、週末に家業を手伝い始めたのです。「まだ父も働ける年齢だから」と気軽な思いでいたのですが、突然、父の胃にがんが見つかり、4カ月後に急死。あまりにも急なことで、気持ちが追いつかない状況でした。
 いったい家業はどうなるのか? そう考えたときにふと浮かんだのは、二代目にあたる祖父からかつて言われた言葉でした。「由加里は家業を継ぐのにふさわしい気性を持っている」。その言葉に背中を押されるように、そして母や姉、周りの方に導かれるように、四代目として就任を決意しました。
 しかし、経営のことなどさっぱり分からない状態で、目の前にある課題を必死でこなす地獄のような日々が続きました。
 売り上げだけを優先するなら、安易な作り方で、日持ちする和菓子を製造すればいい。しかし、そのまんじゅうは添加物を含み、決しておいしいものではありません。私は幼い頃から虚弱体質で、そういうものに体が敏感に拒否反応を示します。だから、「悪いものを作りたくない」という思いがありました。
 そんなある日、当店で製造していたおまんじゅうを食べた後、身体中にじんましんが出たのです。調べてみると甘味料として使用している白砂糖が原因でした。砂糖を見直さないといけない。その日から全国各地の砂糖を試し、その結果、さとうきびでつくった『喜界島産ザラメ糖』を使用することに決めました。
 このことがきっかけで、あらゆる食材を見直すことにしました。その行為は職人さんからの反発を呼びました。「原価が跳ね上がりすぎる」「効率が悪い」「変化なんていらない」思いはそれぞれです。それでも私は自分の思いに正直でいたいと「指示に従って欲しい」とお願いし、了承を得ました。今は昔みたいに10~20個単位で売れる時代ではありません。だから、少量ずつでも「心からおいしい」と言っていただけるまんじゅうを販売することが当店にとってふさわしいと考えたのです。そして、今に至ります。
 父が私に家業を継ぐことを勧めなかった理由が今なら分かる気がします。子どもを持つ親として、私もまさに同じ想い。歴史ある和菓子屋を継承することは決して安易ではないのです。ただ、この街で愛され、支えられてきた「幾世屋」を守りたい。その思いは正直な思いなのです。
 かつて祖父は父に「絶対に店舗を増やすな。この場所を守れ」と言い続けて亡くなったそうです。この教えを大切にしながら、私はこれからも「幾世屋」とともに歩み続けます。

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