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【私を支える魔法の言葉】
「してやる」のではなく、「させていただく」のです

シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。

社会福祉法人「祥水園」理事長 塩崎 万規子さん

(取材日:令和元年9月)

 しおざき・まきこ 昭和34(1959)年2月3日、奈良県五條市に生まれる。4歳の時、大阪府茨木市に住居を移すことになり地元の中学校に進むが、高校は辯天宗を母体とした智辯学園(五條市)へ進学。追手門学院大学を卒業後、結婚と出産を経て、3人の子どもを持つ母として子育てに励む。再婚を機に、西宮に移り住むが平成7(1995)年、阪神大震災にて被災し、五條市に戻る。平成21(2009)年、祥水園の園長を務めていた夫が癌を患い病死。その後、園長に就任。被災の経験からコミュニティーFM局の必要性を感じ、平成29(2017)年7月8日にFM五條を開局。現在、祥水園の理事長を務める。人生の師はX JAPANのYOSHIKI。


「してやる」のではなく、「させていただく」のです=相手を思って行う行為を「してやる」とおごるのではなく、「させていただく」というありがたい気持ちを持って行うことが大切。それが、今の時代に必要な「共生」につながる。


 どんなつらいことがあっても、いつかそれが糧となり、幸せな未来へとつながる。私の人生はまさにそうやって今に至ったのです。福祉に関わり、新たなFMを開局するなんて誰が想像したでしょう。人生は想像し得ないことばかり。だから楽しいのです。
 生まれは奈良県五條市。3人の男兄弟に囲まれ育ったものですから、自分のことを「僕」と呼ぶような男勝りな性格でした。そんな私を見かねた祖母は将来を案じ、日本舞踊を習うように勧めてくれました。 
 辯天宗宗祖の祖母のことを「おばあちゃん」だなんて気軽に呼んだことはありません。職務の大変さを母から聞かされており、幼心に祖母の偉大さを心に刻んだことを覚えています。


《写真左》当時、祥水園の理事長だった父と認知症対応型共同生活介護施設(グループホーム)竣工式前日に撮った写真。前年主人を亡くした私をいつも心配してくれた父でした《写真右》FM五條、竣工式の時の写真。浪速のアナウンサー寺谷一紀さん(左から2人目)が応援に駆けつけてくれました。


 高校は智辯学園へと進みましたが、宗祖の孫ということで凄惨ないじめに遭いました。ひどいことを言われたり、靴を隠されたりなんて日常茶飯事。しかし、クラスメイトが側で支えてくれたおかげで、3年間通うことができました。
 その当時、祖父のもとで暮らしていた私は祖父から「蘭子(らんこ)」と呼ばれていました。「蘭子」というのは祖父の娘で、私の叔母にあたる人。叔母はすでに嫁いでいたので、その寂しさから私を「蘭子」と呼んだのでしょう。
 最初は「私は万規子!」と訂正していましたが、「蘭子」と呼ぶ幸せそうな祖父を見て「蘭子」でいようと娘のように祖父と暮らしました。今思えば、このような高校時代の出来事が今の福祉の仕事の根っこになっているのです。
 高校生の頃、国語の先生から「君は美しい読み方をする。弁論大会に出るべきだ」と言われて、3年連続弁論大会に出場しました。大学時代は茶道部と報道会に入り、特に報道会ではキャンパス内での放送を担当しました。人前で話すことが好きになったのもこの時期です。
 大学卒業後は結婚、出産を経て、3人の子どもに恵まれました。その後、再婚を期に西宮に移り住むのですが、平成7(1995)年1月17日、阪神大震災に見舞われ、着の身着のままで避難所に逃げ込みました。何が起きたのさえ、分からない状況。しかし、一人のおじいさんが持ち込んだラジオがその悲惨な状況を伝えてくれました。
 高速道路が倒壊、死者6000人超え…凄惨な事実の前に、呆然と立ち尽くす私たち。そんな時、ラジオからある曲が流れてきたのです。「どんなに困難でくじけそうでも信じることさ、最後に愛は勝つ」。KANさんの「愛は勝つ」を聞いて見ず知らずの方々とラジオを囲み、大量の涙を流し合いました。
 その時「もしこの命が助かったのなら、誰かに勇気を与えられる仕事がしたい」と誓ったのです。それから16年後の平成23(2011)年、奈良にも悲惨な災害が起きました。大塔や天川に壊滅的な被害をもたらした紀伊半島大水害です。これらの被災の実体験が、「FM局を作りたい」という思いを加速させました。
 さらに、敬愛するYOSHIKIの「やってやれないことはない」という言葉も私の背中を押してくれました。そして、祥水園の移転を機に、FM五條を立ち上げたのです。
 最近、「共生」の大切さをつくづく感じます。高齢者は高齢者、障がい者は障がい者と分けるのではなく、社会を織りなすさまざまな人を包括的に捉え、垣根を超えて結びつきあうべきなのではないかと。
 今思えば、あの避難所での生活では年齢、性別、障がいを超えた共生がありました。共生を実現するためには、「してやる」とおごるのではなく、「させていただく」という謙虚な心を持ち、人と交わることが大切ではないかと祖母の言葉を借りて、今実感しているところです。

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