【私を支える魔法の言葉】
人の前ではご機嫌さんで
シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。
FM COCOLO DJ 小谷 真美子さん
(取材日:平成30年12月)
東京都足立区出身。父親の転勤で1歳のときに奈良に移り住む。関西学院大学社会学部卒業後は、静岡FM放送(K-MIX)で局アナとして勤務。その後、東京で音楽の仕事に関わった後、地元の奈良に戻り、フリーランスのDJ・アナウンサー・ナレーター・MCなど、声を使った仕事に従事。現在は、FM COCOLOで月~木曜日11:00~14:00放送の「PACIFIC OASIS」を担当。ビジネスマンなどへのトーク・コミュニケーションレッスンにも力を入れている。
人の前ではご機嫌さんで=どんなつらく悲しいことがあっても、人の前に出る時はいつもと変わらずご機嫌さんであれ。
誰も信じないだろうけど、幼い頃はおとなしい子だったんです。小学3年生の時に入った合唱団がきっかけで、人前で歌う楽しさ、表現することのおもしろさを知り、積極的になれました。ある日、テレビを一緒に見ていた祖父が「アナウンサーっていい仕事だね」と言った何気ない一言がきっかけとなり、いつしか「アナウンサーになりたい」と思うようになりました。母が結婚式の司会などの仕事をしていたので、その影響かもしれません。母から「私を踏み台にした」と言われます。
歌が好きだったことと、両親が東京出身で日頃から標準語を使っていたことにより、発声とイントネーションには苦労しませんでした。大学時の就職活動ではテレビとラジオの両方にアプローチしましたが、評価をいただくのはラジオばかり。「ラジオ映えする声」と「テレビ映えする声」があるんですね。どうやら私の声はラジオに向いていたようです。そして、念願かなって静岡FM放送(K―MIX)への入社が決まりました。
《写真左》局アナ時代の小谷さん(1996年)《写真右》大学時代に結成したバンド「Dope Heads」でボーカルを務める小谷さん(1999年)
アナウンサーといっても地方局では自ら曲を流し、自らしゃべり、自らジングルを入れるというのは当たり前。初年度から忙しい毎日でした。翌年、先輩のアナウンサーが一気に辞めてしまい、2年目にして女子アナの最年長に君臨することになったんです。
そして3年目にして新しく開設されたサテライトスタジオで帯番組を持つことに。実力が認められた抜擢でなく、消去法で選ばれたことに自信を持てずにいた私は上司に私を採用した理由を尋ねました。すると…「本当は欲しい子がいたけど断られて、二番手が小谷だった」と衝撃の一言。 であれば「私を採用して正解だったと言わせたい」とより一生懸命に励んだのが逆効果で、プレッシャーと過労で倒れてしまい、2週間の自宅療養を余儀なくされました。今年いっぱいで仕事を辞めよう。復帰後はそう思いながらも、翌年まで務め、そして退社。その後、東京での生活を経て、実家の奈良に戻ることを決めました。
話す仕事はもう十分やりきったので、別の仕事をしたいと、たまたま見つけたニュース原稿を書くライターの仕事に応募したんです。それがFM802でした。 「過去にニュースをたくさん読んだのだからできるはず」という軽い気持ちで臨んだ応募は最終面接まで到達。「アナウンサーの経験があるなら、声を聞かせて」という面接官の無茶振りに「じゃあ、記念に!」と気楽に答えたことがあれよあれよと話が進み、FM802でニュースを読む役割に抜擢されたのです。
昔、四柱推命で「しゃべりの仕事は辞めたくても付いてくる」と言われたことがその時、ふに落ちました。それから7年に渡りニュースを読み続け、結婚、妊娠を経て、出産のタイミングで仕事から離れました。それでも、ありがいたことに四柱推命通り、FM COCOLOから縁をいただき今に至ります。
生きていると当然つらい時があります。しかし、ラジオで話している以上はいつもご機嫌さんでいようと努めてきました。しかし、時を経るにつれ変化が起きました。マイクの前に立つと自然とご機嫌さんになれるようになったのです。どんなに体調が悪くても、心が疲弊していても、元気が湧いてくるのです。それは子どもが生まれて自分だけの人生でなくなったことに加え、やはりいつも聞いてくださるリスナーさんの存在がありがたく、うれしく思うからです。 どんなつらいことがあっても、ラジオの前に私の声を待っていてくれる人たちがいる。そのことに救われ、元気になるのです。ラジオこそ、「私」と「あなた」を近い距離でつなげる大切な場所。これからもご機嫌さんで発信し続けたいとい思います。