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【私を支える魔法の言葉】
不 東

シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。

NPO法人音楽の森 荒井 敦子さん

(取材日:令和元年11月)

 あらい・あつこ 大和郡山市出身、大阪船場育ち。小学校1年生の時、母親の実家である大和郡山に居を移す。大阪音楽大学声楽科卒業後は放送・教育方面での職歴や難民キャンプ、障害者施設での豊富な経験を生かし多彩な音楽活動を展開。1982年9月、まつぼっくり少年少女合唱団を結成。子どもたちの歌声を通して国際交流を深めるほか、県内では過疎の村で大和のわらべうたの採譜と交流に努める。1990年『日本青年会議所 TOYP大賞』、1993年『サントリー地域文化賞』、1996年『第1回奈良新聞文化賞』を受賞。1994年からの11年間、奈良市音声館館長および音楽療法推進室室長を務め、奈良市の音楽療法を全国に発信した。現在、NPO法人音楽の森の理事長を務め、音楽に関するさまざまな活動をサポートしている。2019年12月24日「奈良薬師寺時空間絵巻」第一部コンサート出演。2020年2月23日、ならまちセンターにて創作ミュジーカル『川を流れてきたお地蔵さん』の脚本・音楽を手がけ初公演。


不 東=「一度立てた志を最後まで貫き通す」という意味の玄奘三蔵さまのお言葉。      


 「女は強くなければいけない。だからあなたは自分の思う道を貫き通しなさい」。幾度となく苦労を重ねた母が、私に残した言葉です。母が愛した許嫁は出征兵士となり縁に恵まれず。やがてお見合いで他の男性と結婚。しかし、子宝を授からず、実弟の次女であった私を生後1カ月で養女として迎え、離婚を経たのち、女手ひとつで私を育ててくれたのです。生みの母でないと知らされた時、私は戸惑い、母のこれまでの愛情の深さから「お母ちゃんはこの世に一人しかいてない」と泣きながら母と抱き合いました。


《写真左》永六輔さんとまつぼっくり少年少女合唱団の共演《写真右》「音楽の森まつぼくりスタジオ」完成時の写真(2017年5月28日撮影)



 音楽が好きになったのも、母がピアノを習わせてくれたおかげです。母は病弱で仕事ができず、ピアノは買えないからとベニヤ板に鍵盤の絵を描いてくれました。傍から見るとみじめな生活だったかもしれないけど、私にとってはかけがえのない日々でした。
 養女になったからには母の面倒を最後まで見る。それは祖父が課した私への言いつけでした。私には東京や海外に行って音楽を勉強したいという思いがあったけど、「母のためなら」と奈良に腰を据える決意をしたのです。
 その頃、薬師寺の高田好胤管長の御法話を聞くために毎月、薬師寺に出向いていました。そこで、「不東」という言葉に出会いました。「インドで仏典を得るまで決して東(西安)へは帰らない」という玄奘三蔵さまのお言葉です。一度立てた志を最後まで貫くという、まさに母の教えに通じる言葉でした。
 私はこの「不東」の「東」を〝東京〟と捉え、東京ではできない、奈良で成し遂げられる音楽をやろうと心に決めたのです。その決意がたくさんの出会いを生み、まつぼっくり少年少女合唱団もその一つです。県内の過疎の村に伝わるわらべうたの存在を知り、子どもたちとともに普及活動に取り組んだのです。その活動が話題となり、まつぼっくり少年少女合唱団はさまざまな国での海外公演を行うとともに、2005(平成17)年の日本国際博覧会「愛・地球博」では大仏開眼1250周年記念コンサートで共演したサックス奏者・渡辺貞夫さんからメッセージソングを歌う機会をいただきました。奈良での出会いが世界へとつながったのです。
 私が師と仰ぐ永六輔さんとの出会いも奈良でした。当時、朝日放送ラジオで活躍していた経験から、大和郡山青年会議所より、講演のアシスタントとして、私に白羽の矢が立ったのです。その後も、年に1~2回、永さんと各地でご一緒させていただきました。思い出すのは私がスタジオを立ち上げた日のこと。わざわざ応援に来てくれた永さんを雑然とした通路を通って案内し、申し訳ない気持ちでいたところ、永さんが「あっこちゃん、なにも卑下することはないよ。文化ってのはこういうところから始まるんだ」と。
 その言葉に心が震えました。さらに、永さんはスタジオの近所を周り、「僕の友達のあっこちゃんがこの上でスタジオをやりますから応援してやってくださいね」と一軒ずつ回ってくれたのです。地域を大切にした文化活動の「始まりの心得」をしっかり教えてくださいました。
 歌には素晴らしい力があります。それは人と人、町と村、国と国をつなげることができる力です。そう思えたのも、奈良での出会いのおかげ。インドの子どもたちに歌を教えに行くことも私のライフワークとなりました。かつて、高田好胤管長が「今に日本は物で栄えて、心で滅びる時代がくる」とおっしゃいました。しかし、「今は心を受け継ぐ〝形の時代〟である」と教えられました。心は形があってこそ、受け継がれるものだと。さて、歌の心はどのような形で残すべきか。それは私が貫き通した道のゴールかもしれません。


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