【私を支える魔法の言葉】
人こそ、私の財産
シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。
植村牧場 代表 黒瀬 礼子さん
(取材日:平成30年9月)
奈良市出身。同志社女子大学芸学部英文科卒業後、大手ゼネコンに就職。26歳の時に父が倒れ、明治16(1883)年から続く奈良県内で最も古い牧場「植村牧場」4代目の牧場主に就任。労働者不足から知的障害者雇用を進め、平成26(2014)年には農水省の「ディスカバー農山漁村の宝」を受賞。現在、13人の知的障害者を雇用し、そのうちの9人と生活を共にしている。数々の功績が多くのメディアに取り上げられ、全国で講演活動も行っている。
人こそ、私の財産=多くの人との出会い、支えがあることで私は生かされています。そして、これからも人を大切にコツコツがんばるのみです。
■修行先で学んだこと
「しんどい」と思ったことはたくさんありました。「死にたい」と思ったこともありました。しかし、その都度、人に支えられ、ここまで来れたのです。
明治16(1883)年から続く、奈良県内で最も古い牧場を継ぐことは容易なことではありませんでした。ましてや、獣医の祖父や父と違い、私は酪農に関して無知な一般女性。幼い頃から親の仕事を見ながら、朝が早くて夜が遅く、しかも、休みがない…。「こんな仕事は絶対イヤ」と思い続けてきたくらいです。
しかし、26歳の時に父が脳梗塞で倒れ、急きょ、牧場を継ぐことになりました。酪農の勉強をしなければと、北海道にある日本有数の牧場「町村農場」へ修行に行きましたが、私の日課といえば、朝から晩まで牛のお尻を洗う仕事。しもやけなどの手荒れを気にしてゴム手袋をつけたことで、同じ実習生から「覚悟がない」といじめられ、「負けてたまるか」と次の日から手袋を捨てて、手がズルズルになっても毎日のように仕事に従事しました。
そのことがきっかけで、実習生たちと仲良くなり、仕事に一生懸命に従事する彼らから本当の意味での「働く」という姿を学んだのです。また、その彼らは過酷な仕事の後に札幌に遊び出て、次の日は疲れを微塵も見せずに仕事に励むんです。その姿に、私は「けじめ」の大切さを学び、今でも自分の戒めにしています。
《写真左》毎年3月に行われている「春咲きコンサート」=平成11(1999)年、なら100年会館で《写真右》植村牧場にて
■知的障害者を受け入れ
最先端の牧場であらゆる経験をして、植村牧場に帰ったときに感じた印象は「ダサい牧場」でした。そして、私は祖父に牧場の機械化を提案。しかし、祖父から「うちのよ うな小さな牧場はコツコ ツ身を粉にして働くのが一番だということを肝に銘じろ」と一蹴されました。コツコツと言ってもこんな厳しい仕事に働き手など見つかりません。
そこで、ハローワークの方から紹介されたのが知的障害の青年だったのです。彼に仕事を教えることは容易ではありませんでした。例えば「庭の雑草を抜いておいて」と指示すると、コケやサツキなどあらゆる草木を全部引っこ抜く始末。彼には良し悪しの判断が難しいのです。しかし、時間をかけて、愛情をかけて、教え続けると通じるものなのですね。
その後も知的障害の青年を受け入れることに。ある1人の子には牛乳配達を教えました。一緒に同行し、渡してはポストに入れさせることを毎日続け、6カ月経った頃に完璧に覚えてくれました。 しかし「今日はこの家は入れなくてもいい」は通じないのです。そこで、「大きい松の木がある家は2本やで、ワンワンの犬小屋が置いてある家は3本やで」と家の特徴とともに教えると、その子は完璧に配達してくれるようになりました。
■牧場の危機に励ましの声
植村牧場における一番の危機は8年前の自主検査で大腸菌が検出されたことです。これを私は正直に保健所に届けました。当然、すべてのラインを消毒し、安全が認められるまで休業。植村牧場の長い歴史の中で、初めての休業でした。「お客さんはきっと離れてしまう。植村牧場はこれで終わりや―」。そう思いました。もちろんお客さんからの苦情も覚悟していました。
しかし、電話やファクスでいただいたのは励ましの声ばかり。しかも、ラインを管理する業者の皆さんが夜通しで清掃してくれて、なんと次の日には再開することができました。そして、一番うれしかったのは、お客さんの誰1人として離れなかったことです。「なんてありがたい人ばかりなんやろ。ますますコツコツとがんばらなあかん」と強く誓いました。
今でもこの仕事はしんどいことばかりです。お金儲けにもなりません。しかし、人に助けられ、支えられ、明治時代から続けてこれた植村牧場を、私は死ぬまで守っていきたいと思うのです。