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【私を支える魔法の言葉】
人生とは、命を吹き込む歌である

シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。

ソプラノ歌手 山口 佳恵子さん

(取材日:平成30年6月)

 昭和14(1939)年3月31日、5人兄弟の長女として生まれ、6歳の時に戦火を逃れて大阪・難波から奈良に疎開。奈良女子大学附属中学校・高等学校を経て、大阪教育大学特設音楽課程・同専攻科を修了。高校生の時に出会った故・山口昌紀氏(近畿日本鉄道の取締役会長・社長などを歴任)と結婚。大学卒業後は、奈良女子大学文学部附属中学校・高等学校(現・奈良女子大学文学部附属中等教育学校)の教員として、また奈良高専、文化女子短大、県立高円高、教育大の非常勤講師として従事。ソプラノ歌手として、米・伊・中国・韓国での国際交流、東京・大阪・奈良で演奏会を開催。伊トスティ協会名誉会員や奈良芸能文化協会理事、奈良市国際音学交流協議会など社会貢献事業に熱心に取り組む。


人生とは、命を吹き込む歌である=音・間・息遣いなど、あらゆる要素がそろって「歌」となる。人生も歌のように無駄なものなど何一つない。感謝を忘れず、命を吹き込むことが大切なのだ。


■雑念あっては伝わらない
 言葉には魂が宿る。伝えたい言葉も、「思い(魂)」がなければ、その言葉はただの「形」でしかありません。格好をつけたい、いい声を出したい、と雑念があっては伝わるものも伝わらないのです。 昔の私はそんな表面的なことにこだわっていました。しかし、今は雑念などありません。それは主人のおかげなのです。
 主人は近畿日本鉄道の取締役会長を務めたのち、昨年平成29(2017)年12月に亡くなりました。主人は亡くなる間際まで「日本は経済大国になったが、文化は置き去りになってしまった」と嘆いていました。残された私にできることは何か―。もはや、私には歌を歌うことしかできないのです。その歌に魂を込めることしか。

《写真左》奈良県文化会館国際ホールにて、大阪フィルハーモニー交響楽団と市民合唱団と共演《写真右》イタリアのトスティ協会名誉会員就任の表彰式


■母の影響でミュージカル好きに
 音楽を好きになったのは、ミュージカル好きな母の影響でした。私が小学生の時、母は「先生に『お腹が痛い』と言って、帰っておいで」と私を学校から早退させ、ミュージカルに連れて行ってくれた思い出があります。その母の影響か、高等学校に入っても学校をサボって友達とミュージカルを見に行ったものでした。
 父も歌が大好きでした。あまり歌が得意とは言えなかった父ですが、戦中に満州で捕虜になった時、空に浮かぶ大きな太陽を見上げて「月の砂漠」を歌ったそうで、帰還してからもよく歌ってくれました。そのような環境の中で育った私は自然と歌が好きになり、家族の支えにより音楽大学へと進学し、ソプラノ歌手としての道を歩みだしました。

■いろんなことを教えてくれた主人
 主人との出会いは、私が高校生の時にお世話になった漢文の先生からの紹介がきっかけでした。実は私が中学3年生の時、高校3年生だった主人の存在を知っており、その時は「背が小さく、よく動き回る人だなあ」という印象でした。
 結婚してから、主人は私にいろんなことを教えてくれました。「目に見えないものと心が通じ合えれば、本当の音楽が生まれる。そのためにはあらゆるものを平たく、まっすぐに受け入れなさい」。そう言っては私のコンサートを応援し、会場に足を運んでくれました。そんな主人も実は歌が好きだったのです。しかし、歌には自信がなかったようで、私が「声の高さに音楽を合わせれば大丈夫」と励まし、よく歌の練習をしたものです。
 主人が亡くなる間際のこと。主人が私に「紅萌ゆる丘の花」を歌ってくれました。それは本当にとても上手な歌声で、音程も間違えることなく完璧に歌い上げたのです。心が震えた瞬間でした。「命を吹き込む歌」とはこういうものだと、最後に教えてくれたのだと思います。
 最愛の人が亡くなるとその愛情が心の中で倍になって返ってきます。最初は辛かった日々も、時が立つと「そばで見守ってくれている」と温かい気持ちになるのです。今の私にできることは、毎日元気で、笑顔で、多くの方に感謝の気持ちを持って、歌い続けること。声が枯れても、たとえ出なくなっても歌い続ける。それが私にとって、命を吹き込む歌であり、これからの人生。その気持ちで応援してくれている娘の朋子と共に 、国際貢献、社会貢献を続けていきます。 それが主人との約束です。

 

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