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【私を支える魔法の言葉】
百里の道は九十九里をもって半ばとす

シンガーソングライターの大垣知哉が「今、会いたい輝く女性」を取材し、人生の支えになった大切な言葉とストーリーを綴る「魔法の言葉」を連載。

国際ソロプチミスト奈良-まほろば理事 安田 順惠さん

(取材日:平成30年5月)

 昭和11(1936)年、大阪市生まれ。同34(1959)年、奈良女子大学文学部史学地理学科を卒業し、私立大谷学園や大阪府立阪南高校の教諭、奈良佐保短期大学の非常勤講師を務めるかたわら、奈良地方・家庭裁判所の調停委員を26年間務め、その後は参与員を務める。長年の調停功労に対し平成19(2007)年、藍綬褒章を受章。奈良・薬師寺の白鳳伽藍復興事業において、金堂・西塔天井画・天蓋の彩色画工として5年間従事。同14(2002)年、奈良女子大学の博士後期課程に進学し、博士(文学)の学位を取得。社会奉仕活動として、国連NGOの一つで、大正10(1921)年米国で生まれた世界的な女性の奉仕組織である国際ソロプチミストを昭和47(1972)年、奈良県に創設し、以来、国内外の奉仕活動に従事している。


百里の道は九十九里をもって半ばとす=何事も、九分まで来てもやっと半分と心得、最後まで気を緩めるな、という戒め

■勉学の道へ
 幼い頃の私は片意地の張った子どもでした。両親に怒られても、自分が納得できなければ、仏壇と壁の隙間に入り、ジッとそこで何時間でもムスッとすることが多々。そんな私には美人な姉がいて、日本舞踊を習っていた頃、一緒に舞台に立つと「きれいね!」ってほめられるのは姉ばかりで、そんなことが続くものですから、私は日本舞踊をやめて、勉学の道に進むことに決めました。今思えば、それも片意地だったのかもしれませんね。
 父も父で、趣味の神社仏閣めぐりに同行させるのは優雅な姉ではなく、私ばかり。しかし、その神社仏閣めぐりのおかげで、いつしか奈良が大好きになりました。歴史の深さと自然の美しさに心惹かれたのです。
 大学は奈良女子大学へ進学。その頃から、中国・インドの仏教の歴史に興味を持つようになり、学者や僧侶たちが月一回に通う仏教の勉強会「青丹会(あおにかい)」に出席するようになりました。

《写真左》ラクダの背に揺られる順惠さん《写真右》薬師寺白鳳伽藍復興事業に画工として参加する順惠さん

■勉強会での出会い
 その勉強会で一人の僧侶との出会いがありました。正確に言うと、その前にも出会っていたのですが…。確か奈良女子大の合格発表の日だったか、友達と薬師寺に立ち寄った際にその僧侶を見かけたのですが、その時は「小僧さん」といった印象でした。
 その「小僧さん」がのちに有名になられた高田好胤(たかだ こういん)管長でした。その友人と共にその後も高田好胤師にかわいがっていただき、おとうと弟子の安田暎胤(やすだえいいん)師共々、薬師寺とのご縁が深まったのです。私は28歳の時に安田暎胤師と結婚しました。

■玄奘法師の足取りたどる
薬師寺は法相宗の大本山にあたり、鼻祖は玄奘三蔵(けんじょうさんぞう)法師で、宗祖は玄奘法師の弟子・慈恩大師です。玄奘法師と言えば、伝奇小説「西遊記」の三蔵法師のモデルとして知られ、長安からインドへ仏法を求めて、往復3万㌔もの道のりを旅されました。
当時は国外への旅は許されず、国禁を犯してまで旅に出た玄奘法師。通過した国はのべ128か国と言われ、個人が通過した距離としては、おそらく類いまれでしょう。玄奘法師がどのような道を、どのような思いで通過し、どのような文化交流があったのか。それが知りたくて、昭和60(1985)年の夏にタクラマカン沙漠を訪れました。
その後、平成11(1999)年には朝日新聞創刊120周年記念事業として、薬師寺と共催で「玄奘三蔵のシルクロードの旅」が計4回実現いたしました。毎回100人の方々と共にバス約20台で玄奘法師の軌跡を追い、その道中の記録が「玄奘三蔵のシルクロードの旅」中国編・中央アジア編・ガンダーラ編・インド編の全4巻として安田暎胤師が著作、私が写真を担当しました。

■法師の教え多くの人に
今でも玄奘法師の足取りをたどりたいという気持ちは続いています。そして、玄奘法師の教えを多くの人に伝えたい。仏教学、歴史学、異文化交流が折り重なった玄奘法師の生き方こそ、まさに現代に役立つ学びだと思うのです。私は今年で82歳。道はまだ半分です。百里の道を目指し、これからも邁進(まいしん)していきます。

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