サイト名

学び 発見 奈良の魅力を深く

トップ > 人物 >中川 圀昭さん

源九郎稲荷神社を支えた語り部

源九郎稲荷神社の語り部 中川 圀昭さん

(取材日:平成31年1月)

 源頼朝の追手から逃れる義経を何度も助けたと伝わる白狐を祀り「源九郎さん」で親しまれている大和郡山市洞泉寺町の源九郎稲荷神社で語り部として常駐している中川圀昭さん(77)は、宮司が不在となり一時は廃れた神社を手弁当で復興させ、途絶えていた「源九郎祭り」を復活させた。中川さんは導かれるよう、同社に伝わるさまざまな狐の話しや由緒を今に伝え、郡山の魅力を発信し続けている。


 同社は「日本三社稲荷」として数えられる由緒ある神社。白狐に助けられた義経が自らの名「源九郎」の名を贈ったことに由来する。豊臣政権時代、郡山城に入った豊臣秀長と面識のあった僧侶の夢枕に源九郎狐が立ち、「自分を祀ってくれたら城の守護神になろう」と告げたことから、城内に稲荷が建立されたことに由来。
 中川さんは洞泉寺町で生まれ育った。昭和53(1978)年に地元活性化のためにと大和郡山青年会議所のメンバー約50人で、白狐に扮した子ども行列が練り歩く「源九郎祭り」を20年ぶりに復活させたことを機に現宮司に代わって社に常駐している。
 町はかつて、奈良県の三大遊郭の一つと言われ、花街として賑わっていた。しかし昭和33年に施行された「赤線防止法」により多くの遊郭は廃業。中川さんは「町の商売がダメになり、源九郎祭りのスポンサーがいなくなっため、祭りが途絶えてしまった」と、当時を振り返る。
 20年以上途絶えてしまっていた祭の行事。神社の蔵に残されていた子ども行列用の白い衣装は黄色く変色し、白狐面も黒くなり使い物にならない。そこでメンバー全員で資金を集め、すべて新しく作り直し、行列を復活させた。
 しかし先々代の宮司が亡くなった後、材木店の社長が新たな宮司になったが、6年ほどで突然亡くなられた。そこからは宮司が不在の状況に…。神社は閉鎖され、放置される状態が続いていた。大みそかが近づき中川さんは「去年も多くの人が訪れ、お札やお守りを求めて来られた。何とか大みそかだけでも」と、思うようになった。さらに町の人たちからも源九郎稲荷の「白狐おどり保存会」会長就任の打診を受け、自分が中心になって復興しようと決意した。
 「神官でもない自分では神事を行うこともできないため、神社庁に頼みに行ったが、誰も見つからなかった」と言い、時間だけが過ぎていった。それでも「何とかしなければ」と、使命感から社務所の鍵を開けてもらい、中へ入ると「電気もガスも止まり、目の前にはたくさんの督促状が落ちていた」。
 幸いにも引き出しを調べると、お札やお守りが残っていた。大みそかにはそれを並べ、さらにぜんざいを作り、無料で振舞おうと火を入れた。一人、また一人と町の若い人たちが手伝いに来てくれ、復活させようとする機運と輪が広がった。
 今では地元の人だけでなく、歌舞伎や芸能界の著名人、県外をはじめ、同社にはたくさんの人の参拝がある。「お参りにきた人たちとお話するのは楽しく時間を忘れる。今ではお参りだけではなく私に会いに来てくれることも増えてきたのは、本当にうれしい」と笑みをこぼす。
 「源九郎さんの語り部」として活躍する中川さんは、ここで郡山のこと、城下町のこと、源九郎さんのことを参拝者に伝え続けている。「私自身も源九郎さんに『しっかりしないといけない』と言われているんでしょうね、私も助けられているんだと思います」と笑う。
 同社の境内の狐の「狛犬」は、全国の稲荷でも珍しい笑った表情が特徴で、日々の参拝者を迎えている。

なかがわ・くにあき
 昭和16年、大和郡山市洞泉寺町生まれ。郡山高校卒業後、東京に行きたいという一心から日本大学に進む。卒業後は大阪書籍に就職し教科書の編集に10年間携わる。その後、家業を継ぐため地元の大和郡山市に戻る。現在は、源九郎稲荷神社の「語り部」として神社に常駐し、参拝者に由緒や伝説などを伝える活動している。
源九郎稲荷神社
住所:奈良県大和郡山市洞泉寺町15
電話:0743-55-3830

SNS

PR

ページのトップへ戻る